2007/08/16 崩壊と再生 カテゴリー:
サイクル。
最近引っかかるキーワードです。
いろいろなことに当てはめられるのだけど、ゼロの状態からスタートして、形になり安定していくころに、一旦ゼロに戻し、そこから再生し、また形を作る。
この繰り返しで、少しづつ人も、店も、そして味もレベルが上がっていくのかな。
え〜っと、はい、最近自分でないほかのものに、仕事を任せています。
そうすることで、自分一人では出せない結果もあれば、自分では出さない結果も突きつけられる今日この頃です。
沢山本は読むけれど、今とても大切にしている本が松下幸之助さんの本。
5年前ぐらいにふらっと買った本ですが、先日ふと目に留まり幾度と無く読み返しております。
その一説にこう書かれていました。
自分は、人から、経営の才があり、人を使うことが上手といわれるが、そんなことはない。ただ一ついうならば、すべての人が自分より優れていると思ていること。時に「きみアカンやないか」とボロクソ叱ることもあるが、それは職責においてやってるだけで、個人的には、尊敬の念をもっています。
確かこんな感じの文章です。
僕もまだまだだけど、人の教育というものは、そういうものだと思う。
立派に仕事をしているからといって、いい教育は出来るとは限らない。それはその人の能力を認め、評価している人からの視点である。だから、そうは思っていない人からすれば、「次元、価値観の違う世界の人」であり、ひかれてしまう。ひいては、教育の土壌である、信頼に結びつかず、よい結果を出すことが出来ないように思う。
ではどうするべきか?
教育とは、ステージを与え、自身をつけさせる事であると、昔教わりました。
一つ付け加えるならば、そのステージは人それぞれであり、そのものに対しての優劣などないということ。
人には、どんな小さなことでも役割があり、決して無駄ではない。
少しぐらい仕事ができるからといって、それは多少の知識や、経験によるもの。
それをふりかざした教育などはもってのほかだし、できるなら、教える側の目線まで、互いに降りるべきではないだろうか。
立川にも、出来ないスタッフがうんといる。能力的にむつかしい人もいる。それを助ける現場だからこそ、そこに「優しさ」が通い、生きたお店になるのではないだろうか。
人を無下に扱う、教育しか出来ないのであれば、それは飲食人として悲しむべきことだと思う。
飲食人とは、究極の所。プラスの空気を作り生きる力を与える人ではないかと思う。
そこに楽しさがあり、美味しさがあり、驚きがあるのだと思う。
頑張りの結果は各人違えども、そのエネルギーが通うところにを大切に今日も、明日も、教育、共育をやってきたい。
今日の格言「言いたいことがいえないこんな世の中じゃぽいずん」