2007/07/31 いただきましたぁ〜 カテゴリー:
修行について西尾店長が書いていましたので、僕からも。
修行ってなんでしょうね?
いろんな修行があると思いますが、僕は(僕の店では)二つあると思います。
それは、技術の修行と、こころの修行。
技術の修行は、経験と時間に比例して伸びていくのかな。基本は反復と技術習得によると。このあたりは西尾のブログに実体験と共にまとめられています。
もう一つの心の修行。厳密には、技術の修行とも密接にリンクします。人は、仕事を通じて、人間を磨くというのが僕の考えです。仕事を一生懸命真摯にやりきることで、人間としての成長があるのだと。道を究める、道という字は首をかけると書きます。その道の達人といわれる人たちは、深い洞察力を持ち、感性が研ぎ澄まされているように思えます。スポーツのイチローなどいい例でしょうか。
先日久しぶりに会った友人の住職に僕は質問をしました。
ぼうさん、どうして、社会経験もないのに、人を(社会人)説教できるのか?
ぼうさんはいいました。正直に言うとすべてはパクリだと。
パクリとはうまくいったものだと思いましたが、数百年の歴史を生き抜いたそのパクリに幼ないときから接し、その真理を読み取ってきたぼうさんにとっては、それは血となり骨となっているのでしょう。だから言葉が重い。自分の年齢の倍以上のある人を説得させてしまうちからがあるのでしょう。
心の修行とは、すべての物事を極めようとするものには欠かせないものであるけれど、そうでない者にも必要なものだとも思います。
生きることとは、偶然に生まれてから死ぬまでに、意味のある一生であることがこのよに生まれてきた僕らの責任なのかも知れません。
つまり、先祖代々受け継がれてきた、この魂は、生き抜くことに意味があり、生き抜き心磨いていくことで、より高貴な魂となる。それは一つの道を究めることになるのだと。
とまー僕もぼうさんみたく考えて見たわけです。
そしてその考えのもの、凪へ落とし込むと。
麺を通じて人間としての魂を高める集団であり続ける。
これに尽きるのだと思います。